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「おくりびと」の記事以来随分と経ってしまいました。

JWに関わっていて 振り返ってみる とこうしておけばよかった、ああすることもできたのに・・・と悔やまれることばかりですが、とりわけ大切な人の死に対しても もう取り返しがつかないんですよね。
自分がJWの信者で非信者の死に遭遇すると、亡くなった人に対する思いよりもまず、エホバに対してというか組織の言うことに対して罪を犯すことがないように、という事ばかりに気を取られてしまって、大切な最後のお別れの時間や思いを脇に追いやってしまうことが多いのです。



思い返せば、丸太も両親を立て続けに亡くした時もそうでした。
悲しみだけでも自分で背負いきれないのに、その上出来ることと出来ないことをうまくこなさくてはならないし、大切な人を見送る心構えというか惜別の時間をみすみすくだらない教理に惑わされて本当に残念なことをしました。


長老などは、「不安があったら行きますよ」とか言って、あれって何の目的なんですかね。やっぱり監視しようってことですかね。
愛の無いそんな申し出は一蹴しましたよ!

「姉妹のお気持ちよくわかります」とか言いながら「こんなときにサタンが・・・なんたらかんたら・・・」
あんたに何がわかる?!? ですよ。


大事なことをスルーしてしまってるんですよ。


そんな中、父亡きあと母を送るときには、郷里が遠くて親戚が間に合わないので、丸太の実の兄弟と一緒に納棺の儀を見守りました。
訪問入浴みたいにして「湯灌」もしてくだっさたのですが、あの映画のように無駄のない、それでいて亡くなった人を大切に包み込むような扱いが素晴しかったです。


丸太の姑は舅のお葬式を見越して、とっても良い生地で着物を誂えていたんですが、そういう行為は心のあり様をよく表しているんですね。「死」に対する心づもりができているのです。

JWなどは「復活」「偶像崇拝禁忌」などという教理があるものだから、とっても大切なことを見失っています。
「復活」を本気で信じているんだから仕方がない、むしろそれが希望にもなるんですが、いかにも高尚なことを口にしながら結局は形式主義に陥っています。心でどこまでエホバという神に信仰をもっているかを偶像崇拝しない行為によって測っているようなものです。



「おくりびと」の納棺の儀式に象徴されるように、長く日本で営まれてきたお葬式には大切な人を見送る残された人の心を整えているんですね。

その大切な儀式に参列しないだの、線香は上げないだの、ほんとうに泥をかけるような行為です。

亡くなった人を目の前にして、死がどんなものかを見極め、自分の今までの生き方やこれから死に至るまでをどのように生きるかを熟慮することはとても大切なことです。



あぁ、でも今だからこんな偉そうなことが言えるけれど、自分が当事者だった時には今自分が批判していたようなことを平気でしていたんですよね。
でも やっぱり何かがおかしい、というような気持ちももっていたんですよ・・・



現実の死から目を遠ざけるような風潮がある現代、人の死を通して多くのことが学べることを忘れてはなりませんね。
形式はどうであれ、また盛大過ぎる儀式も問題ですが、それに参加するかしないかに思いを乱されるのではなく、もっと本質的に大事なことを見失わないようにしたいものです。




病院で看護婦さんが付けてくださった口紅があまりに似合っていなかたので、母に丸太が自分の口紅を塗ってあげたのですが、死んだ人の唇は寄った皺が戻らないんです。手を加えて元に戻さないと。
この時にほんとうに母には命が無いのだということを実感して、悲しいという言葉だけでは表せない気持ちを経験しました。

口紅自体は後から納棺師さんが綺麗にお化粧してくださったんですけれどね。




「死ぬ」ということが怖いから「復活」という教えはより魅力的に思えるんですね。それが可能だったらどんなに素晴しいでしょう。
自分が死ぬと思っていなかった、つまり楽園が非常に近いと信じて疑わなかった者にとって、この「死」を受け入れるということが大きな挑戦です。
二世の皆さんもそうでしょうけど、とりわけ一世にとってはこの点はかなりの挑戦になるのでは、と思います。


JWの言う復活があるにせよ無いにせよ、死者を思いを込めて送る価値が変化するわけではないと思うんですよね。




話が少し脇道にそれますが、北方謙三さんの著作の中にある「なぜ生きるのか」と迷うくらいなら、「どう生きるか」を考えろ!という精神、見に沁みます。
(北方謙三さんはハードボイルドばかり書いていあるわけではありませんよー。『望郷の道』という作品は非常に胸が熱くなりました。)



たらたらと書いてしまいましたが、人の生き様や一般の書物に学ぶことは非常に多いわけです。そういう知識をサタンからのものとして退けるのはほんとうにナンセンスです。



「なぜ生きるのか」と迷うくらいなら、「どう生きるか」を考えろ。
この言葉かなりこたえています。その通りだと思うからです。

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